この耳で生きていく

突発性難聴の日々を自分らしく暮らす

大部屋のすすめ②~6人部屋の片隅で愛を叫ぶ~

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突発性難聴は、原因不明、特効薬なし。
後遺症が残る可能性もあるという、ハードな病気だ。 

ただし、死ぬことはない。

13日間の入院生活は、回復しているという実感はなく、酷い症状との闘いの日々だった。ただ、命の心配をする必要はなく、それがどれだけ恵まれているかを思い知らされる日々でもあった。 

 

わたしが入院していたのは、消化器内科病棟の6人部屋。

突発性難聴は耳鼻科の病気なのだが、耳鼻科病棟は1日8,500円の個室しか空いていなかった。そんなわけで、空いていた消化器内科の大部屋に入院することになったのだ。

 

6人部屋の片隅で愛を叫ぶ

癒し系ボイス

突発性難聴になり、右耳が重度の難聴でほぼ聞こえなくなった。

音という音はすべて、聞こえる左耳を通して入ってくるから、音がどこから聞こえてくるのか分からないという事態になった。

 

病室にはわたしの他に4人の患者さんがいたのだが、入院したばかりの頃は、声はすれど、どのベッドの人なのか全く把握できなかった。

でも毎日聞いているうちに、声とキャラクターが一致するようになり、カーテン越しに聞き耳を立てることが、趣味の悪い日課になった。それくらい病院で過ごす一日は暇だったのだ。

 

難聴の耳には時々、音が不快に響くことがあった。
だから見舞い客などの会話が賑やかになると、辛いこともあったのだが、その中にすごく聞き心地の良い女性の声があった。それは低音で癒し系の、子守歌のような声。その声の主はほぼ毎日、入院中の母親の見舞いに来ているようだった。

 

そんな癒し系ボイスの娘からは想像しがたいのだが、母親である患者のSさんは、強烈なキャラクターだった。 

看護師さんが「お名前と生年月日を教えてください」と言えば、「昨日も言っただろ!なんでそんなこと毎回聞くんだよ、何度も言わせるなっ」 と返す。

「Sさん、お通じはありましたか?」と聞かれれば、「ごはん食べてないんだから、出るわけないだろ!」 とさらに声が鋭くなった。

「今日、採血しますね」と言う看護師さんを、「痛いから、絶対に嫌だ!あんた達へたくそだからやらせてやらない!」と言って困らせた。

毎日、看護師さんと繰り広げられたお馴染みのやりとりなのだが、わたしは密かに、日替わりの看護師さんがSさんにどう切り返すか、カーテン越しに楽しみにしていた。

 

そのやりとりで分かったのは、Sさんは食事をとると命に係わるから絶食という、重い病気だということ。


「ごはん食べさせてもらえないから、ふらついてばっかだよ!」
など、とても食べていない人とは思えない勢いで叫ぶ母をなぐさめ、看護師さんに「わがままですみません」と謝る娘の癒し系ボイス。その声のトーンと穏やかそうな人柄に、わたしはいつの間にか癒されるようになっていたのだった。

 

6人部屋の片隅で愛を叫ぶ

ある日、食事を出すためには採血をして検査しなくてはいけないと説得を試みる看護師さんを、Sさんはいつものように追い返そうとしていた。

すると、とうとう主治医がやってきた。

「ぼくが痛くないよう採血しますから」との言葉にも「いやだ」を押し通すSさん。少しの沈黙の後、

「じゃあ、退院しますか?」

と先生は言った。このまま家へ帰れるような病状ではないことは、わたしでさえ何となく知っていた。主治医の一言は効いたらしく、Sさんは黙ってしまった。

 

次の日の朝、ついに検査と処置を受けたと思われるSさんが、ベッドごと病室に戻ってきた。
バタバタとした雰囲気の中から聞こえてきたのは、処置を受けたけれど上手くいかなかった、だから絶食は続けるというSさんへの説明だった。

 

そのすぐ後、Sさんの娘さんが病室に飛び込んできた。
「お母さん、このままだったら死んじゃうんだって!!」
いつもの落ち着きは全くなかった。高く、涙交じりの声だった。
「だから先生の言うことよく聞いて、食べられなくても頑張ってよぉぉ!」
と静かに叫んだ。


わたしはそれまで、カーテン越しに勝手に癒されていた。
そしてその日「死なないで」とも聞こえた痛々しい叫びに、またもや勝手に涙を流していた。

 

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魔女の後ろ姿

ところで、大部屋の中はベッドごとにカーテンが閉められて区切られている。
なので、普段、同室の人の姿を見ることはあまりない。トイレへ行く時とかに、たまたま顔を合わせるくらいだった。
 

入院生活も後半に突入したころ、はじめて、Sさんと娘さんの姿を見た。

その頃になると、めまいが残る身体でふらつきながら、デイルームまで歩いて行くのが日課になっていたのだが、そこでSさんと娘さんがソファに座って話しているのを見かけた。初めて顔を見たのにSさんと分かったのは、やっぱり娘さんの声だった。

 

声は毎日聞いているのに、初めて顔を見るというのも不思議なものだ。声だけを聞いて膨らませたイメージよりも、娘さんはずっと若くて驚いた。

そしてSさんは、壊れてしまいそうなほど弱々しく、でも誰も寄せ付けないオーラを放っているように感じた。ずっと人知れず暮らしている「魔女」を、初めて見たような気分だった。

 

その頃から少しずつ、Sさんと看護師さんとのやりとりは、穏やかになっていった。 

Sさん「わたしね、病院でも家計簿つけてるんだよ」
看「そうなの、すごいね~」 

Sさん「うちの娘はね、料理が苦手だから心配」
看「そっか。じゃあ早く治して帰らなくちゃね」

ある日、廊下の突き当りの窓辺に、点滴台につかまりながら外を眺めるSさんの姿があった。

娘さんはもう帰ってしまったのだろう。一人で夕暮れを見つめる後ろ姿が寂しそうで、わたしは何故か、Sさんを抱きしめたくなった。

 

そして思った。

誰にも心を開かずに反抗的だったSさんを変えたのは、娘さんだ。死なないでという叫びを、わたしは今でもはっきりと覚えている。

 

わたしが退院する少し前、「わたしは食べられないのに、食べ物の匂いがプンプンしてきて、本当に迷惑!!」と、看護師さんに訴えるSさんの声が聞こえてきた。

まさに、いい匂いをプンプンさせていたわたしは、パンチを食らったかのようだったけれど、不思議と嫌な気持ちはしなかった。心の中で「ごめんね~」と謝っておいた。

 

やっぱりおすすめしたい、大部屋ライフ 

同じ病室で過ごした、病気も家庭環境も年齢もさまざまな人たち。病気にならなかったら、出会うことはなかった人たちだ。 

 

入院中、わたしは自分の病気に苦しみ、完治しなかった今後の人生を思って悲観に暮れたこともあった。

でも、片方の耳は聞こえている。
ご飯は美味しく食べられる。
何よりわたしは生きている、だから大丈夫だ。

そう思えるようになったのは、自分の力だけではない。

偶然にも過ごすことになった病室での13日間、ただすれ違っただけの誰かの人生の一部を、わたしはきっと忘れないだろう。 

そういえば入院初日の夜、病室の窓から、遠くの方で花火が上がっているのが見えた。

看護師さんの「あ、花火!」という声に、病室の何人かが窓に近寄り外を見た。その日から始まった病院での生活、不安が少しだけ和らいだのを覚えている。

 

わたしはやっぱり、大部屋をおすすめしたい。